「違う」が怖くなくなる。「どれでもOK」に救われる。
「違うの!」
この1行を書けば子どもがダダを捏ねてるようだがれっきとした大人の発言である。
小学生の私に言い聞かせた父の台詞でそれだから口調が子どもじみていたのだ。
「ほんとうの人間はこんなふうに目に星なんかないでしょう?」
わたなべまさこさん(だったと思う)バレリーナの漫画イラストを指し父は述べる。
ほんとうの絵とは、ほんとうの人間の絵とは、を伝えたいらしいのだが
当の私は正解をすぐ導きだしていた。「…とーちゃん、これは漫画だよ…」
心の中で思っただけだった。当時の私にしては珍しく口答えをしなかった。
否定から始めて真実の答えにたどりつく論法は40年前の大人はよくしがちだった。
やがて私は誰からも「違う」と注意を受けたりするのが苦手になっていった。
ただ抵抗を感じるのだった。「違う」に反発したら対人関係に亀裂が入る。
言いなりになったら自分のしたいことと異なるので物事はつまらない結果になる。
長いこと「違う」スパイラルから抜け出せなかった。
スピリチュアルの考え方に触れて「どの発言もOKなんだ」とあらましを掴んだら
心の荒れた海は凪いでいき凍った風景は雪解けを迎えた。
父の「違うの!」もOKだし、学級担任の否定もOK。
偏見は偏見でその人が持っていて全然OKだし
何より我が心がそれらに振り回されなくとも大丈夫なんだ。
「お父さん、これは漫画ですよ」
そう、今も漫画みたいな夢みたいな心地を生きていてオールオッケイなんである。