断薬してパート後、一番キツい入院。
一番キツい入院の前に、わたしはお薬を飲んでいませんでした。
「君はもう(薬を)飲まなくていいよ」と診断した医師が居たので、
わたしは断薬しました。パートに就いたのはその数か月後。
結局入院になり断薬は失敗に終わったこととなります。
夫はわたしが「パートをしたから辛い入院生活になった」、
との文脈でわたしに言い募りますが、
薬を飲んでいなかったことのほうが大きかったんですよ。
幸福追求権。
「苺につらくあたったりしないね」と夫は告げてお盆休みが始まった。
わたしは嬉しかった。言い争いをしないでお盆を過ごしたい。
夫は賢い。賢いがゆえに気づく視点がいっぱいある。
わたしはボケ倒してはいられない。もっと目覚めて動かねばならない。
恵まれている。それも特権階級的に。
自覚して瞬間瞬間を大切に生きなければ。
わたしが選んだ幸せ。幸福追求権を行使して掴んだ幸せ。
夫が彼が教えてくれた幸福追求権という言葉。
日本で全員に与えられている権限。あなたもわたしも。
しあわせになる権利は誰にでもある、という。
静かに力が満ちてくるのが解る。
精神科の入退院。統合失調症。わたしが選んだ道。
どれが欠けても今のわたしにならなかった。自分で選んだんだった。
地元からの遠心力で上京した。のち、再婚。
事実を並べるだけだ。そこに何の感情もこめず怒らず悲しまず綴ろう。
これこれこういうことがありました。書類を書くみたいに。
言葉の羅列として。ただ置く。これは訓練めいている。
以前は感情的だったわたし。
殻を脱ぎ捨てよう。やれるね。うん。頑張る!
就労支援のプログラム。
わたしは昨日涙にくれた。
「どこにも行き場がない。」
結婚しても家事能力もなく夫に迷惑をかけ放題だ。
これは被害者意識から遠い文章にしたく思う。
閉鎖病棟から退院する際には投薬の管理の指導、統合失調症を繰り返さないための学
習・集まり・及び指導までは存在する。肝心の世間を渡っていくための就労支援は無か
った。
かつて都内のデイケアでわたしは掃除の仕事を希望しデイケアの職員さんと話をした時
に彼女は「観音崎さん、1万円くらいにしかならないよ?」とあかるく言われそこで話
は終わった。わたしは「…だろうなぁ。かなりの無償の奉仕活動みたいなものとなるん
だろうな」と思考はストップした。
脳裏にはいくらか反応が健常者ばなれしている態度を持つ作業員の姿が浮かんだ。
また、自分の依存度は計り知れないな、と落ち込んだ。
どこを頼りにすれば答えが出るというのだろう。また頼りにするという思考が
ダメなのだ、とずぶずぶ落ち込んだ。
夫に聞くも「したいことと仕事が一致するひとは稀」らしい。
蜘蛛の糸を掴むような心もとなさ。
わたしはそういったわけで外界にコンタクトする勇気も無い根性も無い。能力も無い。
夫婦喧嘩で落ちこぼれるばかりのどこへも行けない困ったちゃんだ。
文末に答えはない。キーボードを叩いて答えが出たならばどれだけでも叩くのに。
出るのは希死念慮にふちどられた感情ばかり。
わかりあう、交差する人生。
エネルギーレベルでの心の邂逅。
夫と深い部分でやりとり出来た感触。
彼がいつも言っていたのはコレだったのかー!と膝ポン。
手をつなぐだけでecstasy。確かに、ウンウン・その通り。
季節がゆく様子を見るだけで確固たる幸せを感じる夫。
物を買う、消費以上に心を満たしてくれるそれら。
日々の表現で彼はリアルミニマリストに暮らし満ち足りている。
実際のわたしたちは笑いの価値観が一緒。ツボが同じだ。
それって誰も言わないけれど生涯連れ添う鍵としてかなり重要だ。
わかりあう、交差する人生。
街角を曲がって花に出会う、都会は人口が多いため植物に
丹精込める人も多数存在する。感謝、の一言である。
わたしたちの目を心を和ませてくれる。言葉以上のものだと思う。
写真の百合に出会って不意にこぼれた溜息。なんて美しい。
ありがとうございます。まだ生きていていいのですね。力をいただきました。
彼方のひとびと。
まいばすけっと(コンビニ規模のイオン系のスーパー)の帰りに
荷物が重い時など、フラフラになりながら、脳裏に彼岸に逝ったひとびとと
話をしながら歩いていることがある。
その1(ばーちゃん)「ああ、そんなに”よんがらよんがら”
(フラフラと歩い)て」ばーちゃんが不安そうに語りかける、うん、大丈夫だよ。と
わたしは歩を進める。その2「フンッ」じいちゃんは厳しかったものね。
空の向こうでも相変わらずってカンジ。その3「苺は本当にオガシナイ(おかしい)」
おとうさんも変わらないねぇ。ただあなたがたはそうやって空から地上を見下ろしてわ
たしを見ていてくれる。そのことにちっちゃく安心していられる自分が居るよ。
存命の頃などより、わたしを知ってくれている気がするの。
頭の中のヒミツ通信。映画的な気分。
映画的な気分について。おとうさんは不思議がってた。
「何それ」怪訝そうな顔。自分の理解の範疇を越えると途端に
「オガシナイ」判定をくだす父。それが「らしい」感じがした。
だけど「お前とオレは似ていたんだな」と晩年言っていた時があって
たぶんだけど、わかってくれたのではないかなぁ、ってふうに思う。
逝っちゃったらそんな細かいことは清算される。そういうもんだ。
そちらのお天気はどんな具合ですか?
こちらは梅雨です。今日は晴れています。
遠い記憶。未だ苦しむ。
わたしの人生の忘れられない出来事。それは国立のA病院。
両親が「苺はオカシイ」と判断してひっぱって連れていった精神科。
当人としては日常であるから特に何の異常も感じてはいない訳で。
今より乱暴な投薬の時代。粗野な扱いをする看護婦(当時の言い方)。
聞かぬふりを通した医師。欲望のままに動く患者仲間。
「なんの集団かと思いました」と述べたのは
そういう自分もその内に所属するんだよ、と言ってあげたかったJ恵ちゃん。
昭和のノリがきつかったな。堂々いびる看護婦。
医師は製薬会社と癒着していたんだろうか。なぜあんなにロドピンを使うのか。
嫌だったなぁ。そんなわたしが楽な気持ちでA病院を暮らせたのは
看護婦Kさんがわたしを認めてくれたから。Kさんは「あれが普通の20歳だと思う」
普通認定ありがとう。今はお仕事を勤めあげて悠々自適でいらっしゃるだろう。
人は認められる生き物だと考える。「あなたの意見に賛同します」
夫もそうだったではないか。いつから言質をとり妻をへこます人となり果てたか。
この記事はひりひりした中から生まれた。
あなたが認め伸ばしてくれないからだよ。わたしは悲しい。
何より認めてもらいたいひとに、けちょんけちょんに言われて
嬉しい朝なわけがない。
心はフリーズしています。今朝の野菜スープの作りおきは
余計な感情が入っちゃって美味しくないだろうな。
アカシジアと書き文字。
アカシジア。座っていられない症状はただでさえ我慢強くないわたしにとって
何度も訪れるハードルだった。ハードルにぶつかって転ぶ。
現在はお薬がバージョンアップして悪さは直接食らわないものの、
かろうじて残っている症状として書き文字の汚さが気にかかる。
薬を服用していない学生のわたしは丸文字でノートをとるのが好きだった。
今では手に適切な力が入らない。丸文字の雰囲気は残ってはいる。
だけど格段に下手になった。
アカシジアに捕まった当時、1分間に1文字という非常にゆっくりと遅くしか
書けなかった。しかも左手で書いたようなヨレたお粗末な字。
相当落ち込んだ。わたしは詩作好きだった。それからも遠ざかった。
自分の文字が自分じゃない。悲しかった。
のちにパソコンの時代となる。タイプライターやワープロで
ブラインドタッチが結局出来ずじまいだったわたしは
タイピングの教則本を買い求め夢の両手打ちを必死に頑張った。
ローマ字入力がお薦め、と聞き目で文を読みとり指先でローマ字にしてゆく。
書き文字は機会を失っていった。
ただ、今ここに来てお手紙を出したい相手に届けたい、
書き文字で顔をあげたい対象ができた。心をこめて書きたい手紙がある。
そのかたは毛筆や硬筆の段をお持ちだ。わたしはますます緊張する。
アカシジアに打ちのめされやがてゆっくりでも浮上し、ここまできた。
16歳で固まってしまわなくて良かった。
今の夫に出逢えて人生の時計を止めなくて本当に良かったと感慨深い。
生きていれば何がしかの邂逅はあるものだ。本当に絶望するいとまは無い、と思う。
涙がとまった。内観。意識に光を降ろしましょう。
夫からきいた内観の方法。
意識に光を降ろしましょう。
意識が(どういった感じか)難しい場合、わたしは心に残っている「出来事」に
照射する雰囲気で光を降ろしています。
これが°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
いい感じなのです!!*..。+゜¨☆*..。+゜¨☆*..。
ドロドロのネガティブが真水に変わる感触♡
辛い辛い日々のおさんどんが笑顔で終了~
いや~ 涙が止まる、って大きい!
4月はわたしの誕生日があり、記念日が多い月でした。
幸せな幸せな月でした。
ずっとこぼさないように運んでいきますね。
はなびらのうみ。
この季節、この時期だけの、はなびらのうみ。
漕ぎだしてきました。今度ひとりで歩きます。
わたしたちは一緒に居すぎましたね。
すこしだけ離れて有意義にそれぞれ過ごすこともまた大事で、
あなたが提案したそれらを了解した午後。
怪我や衝突などありませんように。
あなたの編む運命をただ支援します。応援します。
ですから冒険譚をぜひきかせてくださいね。
動かない彼女。
このブログにも幾度か出てくる彼女。
まったく自分から動かない道を選んだひと。
その強情さにわたしは心から驚嘆する。
なんて依頼心の強いひとだろう、と。
何かショックなことがあったんだろうか。人生に絶望したのだろうか。
一番最初に「いいわね、動けて」と彼女はわたしに話しかけてきた。
わたしは「?」となりながら話をきいてゆくと
「3年で動けなくなったの」ということだった。
ますます「???」となりながらも彼女の言うままわたしは詰め所の
看護婦さんを呼んだ。彼女は何かしたい場合、看護婦さん経由で物事をするのだった。
「甘えているのよ」昔からの顔見知りの看護婦さんは仰った。
にしてもその状態を誰も止めなかったのか。
彼女はナースコールを持たされ一人部屋で動けば看護婦さん或いは看護師さんを
呼べるしくみを作られていたが動かないこと山の如しで結果は捗々しくなかった。
わたしはショックなことがあると寝れば治るというかその分、神経は
細かに出来てないのか自分で動いたほうがなんぼか早い。で起きて活動する。
自然と一日を始めてしまうものと考えるから、いや、考えなくても身体は動く。
日々を放棄したくはない。130歳までしゃんしゃんと自分で自分のことが
出来る高齢者になりたい。そのために意識鮮明でいたい。
動きたくないから、というエネルギーで生きたくはない。
そのかたは未だに入院生活を続けているのかな。
現代では退院させて自主的に生きるようにプログラムを作るのだけど
彼女はあくまで動かない。どうするのだ。一体。怖くて聞けない。
あるのは事実だけ。彼女は動かないのだ。