椿の咲くように。
薄曇の中、ウォーキングへ出かけた。
公園の水族館側の茂みに椿の花を見た。
この写真も日付が11月下旬で咲き揃うのが判った。
さざんかはもっと儚く咲く。
椿の生命力ははっきりくっきりしている。
ウォーキングはわたしがまだしゃこしゃこ動きたい、だから鍛えたくて
出歩いている。何しろ動くのを辞めたら本当に動けなくなるんだもの。
実例を見ちゃったんだもの。
彼女(と言ってしまうが年上の女性)は、諦めたのだと思う。
どこかで諦めて介助の人を頼りにして生きてきたのだと思う。
それが閉鎖病棟に入院させられ、投薬を受けながら
リハビリを避けて避けて甘えの利かなくなった事態に陥ったのだ、と。
わたしはもっとくっきりはっきり生きたい。
さざんかのようでなく椿として生きたい。
夫と話す。「二人の子どもが見たかったね」と。
あと10年早い出逢いだったら可能だった。
今は二人で健康長寿を目指してしまう。
出産にはリミットがある。
血管が破れてしまうであろう出産にまつわるすべてを諦めざるを得ない。
血圧の薬をしっかり飲んで自分に出来ることは自分でして、
最近の夫は以前に比べると「だいぶ楽になった」とひとりごちる。
わたしが朝食用の野菜を切り(9種類はある)お風呂を入れ、
夕食の鍋を作り、後片付けをし、ごみまとめをし、簡単に掃除をする、
家事参加をするようになってからだ。夫がイキイキしだしたのは。
こうなることを想定して誕生する前に二人のハイヤーセルフ(真我)が
話し合っていたのだと思う。
運命の贈り物を開けるたびに二人は感嘆する。深く、深く。
今夜も無事に帰宅した夫を迎えていつもの夕食を摂るのだろう。
幸福を帯びながら、わたしはお皿を洗うだろう。
今夜はどんな笑いが飛び出すか、楽しみだ。
二人とも「言葉に萌える」ので。→大事な共通項。