「ウチの素顔だ!」ばーちゃんが言う。恥ずかしかった。
実家にて。社交的なわたしのお祖母ちゃんは
いきなり友人を連れてきては孫がくつろいでるのもお構いなしに
「ものっそい」散らかってる部屋へ通して、
「これがウチの素顔だ!」と言い放った。
孫娘たちは散り散りばらばら。「行かねんで、行かねんで!」
(行かないで、と、ご友人が言うも時すでに遅し)
だいたい、お友達を家にあげるのに少しは体裁を整えることをしないのか、
お祖母ちゃんよ。
魔窟のような実家にすっごいアバウトな住人。
観音崎家の実家はどこから手をつけていいのやら、という風体でした。
お祖母ちゃん。おともだちは大切にしないと。
居づらくて早々に帰られたことは無いのかなぁ。
お友達の心情やいかに。「…私って大切に思われてないのかなぁ」
観音崎実家において女3代とも「針箱」が魔窟!でございました。
あれ?お祖母ちゃんはお針を習ったんと違ったっけ?
尋常小学校しか出てないのがコンプレックスで本当はお針の学校へ
行きたくはなかったのかな。…にしても。
孫娘たちは苦々しく思い出すんだよ。
絶対神ではない。
夫とて絶対神じゃない。
知識の数や内容は適わなくても絶対じゃない。
わたしはわたしを行こう。
そう言い聞かせながら心に刻んだ。
空はどんより。
なんなのだろう。昨日は暖かかったらしいが精神的には大差がない。
大まかに区切ってやはり冬の気温だと思う。
地元では雪だろうな。
雪かきがマストじゃない都会っていい。
故郷の知り合いが関東暮らしでUターンして地元に戻って
冬の雪かきには心底まいった、という話をしていらした。
雪はもう、たくさん。
春を待とう。春待ちの詩を幾つ描いたことだろう。
雪が溶けて地面の茶色が見えると嬉しかったものだった。
ホシノヒトミが綺麗に音符みたいに咲くのがわくわく嬉しかった。
同じ頃、都内では葉牡丹がにゅーっと伸びて天辺に菜の花みたいな
花をつけて終了~♪ って知らなかったなぁ。
動けなくなるほうが怖いんだよ。
3年でまったく動かなくなったかたが国立にいらした。
どれだけ周囲に依存したんだろう。
まわりが彼女を誘導しようとしても頑として動かない。
「甘えてるのよ」と看護婦さんがポツリ言った言葉を忘れない。
彼女は部屋の温度までも自分の心地よさ優先で(暑がり)設定温度を上げなかった。
気の毒に同室のかたは眠るための足カバーと肩掛けカバーを用意し
寒くないように眠っていらした。「おら、やんたぁ~」と嘆いてばかりじゃない、
ちゃんと出来ることは工夫しておられた。
それに感動した。
やるじゃん、おばちゃん。
それにひきかえ動かない彼女、誰とも一緒の部屋になれないだろうな。すぐ頼るから。
「詰め所の看護師さん呼んできて」と。それを繰り返していると本当の孤独に
陥ることになるのだと彼女は気づかないのだろうか。
ま、今は関係ない。そんなことより自分。自愛をこめて描きだした日記。
春よ、来い。春待ちハート。
憐れむなかれ。
プレミアム土曜日だからこそ、掃除に精を出した。
まぁ書かないが。夫から「掃除した時だけ嬉しそうにブログに上げないで」との
お達しがあった。んなん、自己満足の世界だ。別にいいじゃんよーってわたしは
思うんだけどな。
「規格外の私の尻拭いを何度もさせてしまって申し訳ありませんでした」という
メッセージカードの文章を(おそらく)母は読解不能なんだろう。それならそれでい
い。実家の大人たちの目に触れたらそれでいい。母にはたましいの病院へ行かなければ
ならぬほど今現在では通じないだろう。前のわたしの結婚解消のあれこれを「そんな
面倒くさいことを」と留守電に吹き込んだひとだ。アナタが決めた結婚だろうが。
たぶんそれも含めてのいいタイミングだったであろう。わたしたちの再婚は。
この頃、夫の機嫌のすこぶる良い時は天井知らずに高い。
わたしは過去を手放せたのだ。もう後ろ髪を引かれることもない。
まったく無価値なものに何故あれだけ執着してただろう。
馬鹿みたいだ、自分て。馬鹿だった、わたし。
自分で言うぶんには良いが他者から言われるそれは我慢がならない。
「お前だって〇〇が▽▲✖だろがぁー!」と感情は反論しまくる。
夫に対してわたしがキレた際に彼は瞬間、憐れむような表情を、した。
「可哀相に!」と言い放つ人々の感情の向こう側の高揚感を思う。
下に見ているんだ。わたしを。でないとそのひとは生きられないくらいの
闇を抱えている。憐れむなかれ。そのことで気分良くならないでくれ。
わたしは母を含むそのかたがたを苦々しく思うだけです。
憐れむなかれ。
プレミアム土曜日だからこそ、掃除に精を出した。
まぁ書かないが。夫から「掃除した時だけ嬉しそうにブログに上げないで」との
お達しがあった。んなん、自己満足の世界だ。別にいいじゃんよーってわたしは
思うんだけどな。
「規格外の私の尻拭いを何度もさせてしまって申し訳ありませんでした」という
メッセージカードの文章を(おそらく)母は読解不能なんだろう。それならそれでい
い。実家の大人たちの目に触れたらそれでいい。母にはたましいの病院へ行かなければ
ならぬほど今現在では通じないだろう。前のわたしの結婚解消のあれこれを「そんな
面倒くさいことを」と留守電に吹き込んだひとだ。アナタが決めた結婚だろうが。
たぶんそれも含めてのいいタイミングだったであろう。わたしたちの再婚は。
この頃、夫の機嫌のすこぶる良い時は天井知らずに高い。
わたしは過去を手放せたのだ。もう後ろ髪を引かれることもない。
まったく無価値なものに何故あれだけ執着してただろう。
馬鹿みたいだ、自分て。馬鹿だった、わたし。
自分で言うぶんには良いが他者から言われるそれは我慢がならない。
「お前だって〇〇が▽▲✖だろがぁー!」と感情は反論しまくる。
夫に対してわたしがキレた際に彼は瞬間、憐れむような表情を、した。
「可哀相に!」と言い放つ人々の感情の向こう側の高揚感を思う。
下に見ているんだ。わたしを。でないとそのひとは生きられないくらいの
闇を抱えている。憐れむなかれ。そのことで気分良くならないでくれ。
わたしは母を含むそのかたがたを苦々しく思うだけです。
目に見えるもの・見えないもの。
例えば「心を観察する」という表現。
これがちょっと前までは分からなかった。
今ではわかる。自分を理解してあげることに繋がっていくからだ。
自分は自分が分かっていればいい。
それが誰か(たとえば好きな人に)であれば尚、精神衛生上いい。
最近ではその誰かに伝えなくとも平気になってきた。
言葉は少ないほうがいい。自分にも負担だし相手にも持たせる感情は重いだろう。
心を観察するのに飽いたら身体を物理的に具体的に動かす。
ラジオ体操や軽いヨガで逃す。身体が伸びると気持ちが晴れ晴れする。
気持ちの重さは揮発する。あの空で虹の七色になるのだ。
目に見えるものと見えないものでウダウダ心が言い出したら気をつけよう。
ただそれだけだね。なぁんだ。簡単じゃん。
この積み重ねが自信になる。不安に揺れることのほうが必要なかった。
今日は冬至。これから少しずつ日が長くなる。暖かくなる。
心の分岐点までGOだ。きっと楽しいよ。今よりもっと研ぎ澄まされた自分になるよ。
切り離すイメージで、手放した。
母とわたしは女同士だが人格が違う人間だ。
いつもフラッシュバックする苦い思い出は完全に許した上で切り離そう。
そもそもが違うのだった。
考え方も生きる意義も、見事に違う。話す語彙も果てしなく違う。
丈夫に産んでもらった恩義はあるが、歩く道すじが違う。
彼女が怖いと思うたとえば「水たまり」をわたしはポンと飛び越える。
母が使う絵の具は淡すぎてわたしは敬遠する。
薦められる人生の岐路の内容はわたし好みではなかった。
それだけ違うから、「今がこう」なんだと思う。
ハサミで切り話すイメージで手放す。それでいいんだ。
雑多な感情や思い入れなど挟む余地もない。
ぐちゃぐちゃになったラップを深呼吸ひとつして戻し孤独と向き合う。
いやーまいった・まいった。
浅漬けの小皿にね、ラップをかけようとしたの。
手もとがすべって哀れラップは端っこがわからなくなっちゃった。
切り口は半分見えない・ああう!
わたしは一時パニクったが順番を経てラップの端を見つけた。
こういう場合はセロテープみたいなもので端を探索するのが早い。
我が家のテープは大判だ。100均のそれは切る箇所が無い。
キッチンばさみを持ち、テープと格闘する。
テープが取れたらラップに対峙する。
で、ラップはめでたく端が見つけられた。
神様は酷くパニクったわたしをご覧になっただろう。
決して褒められた態度ではなかったことを記そう。
ただ、ブログのネタにはなった。
今日の浅漬けはそんなわけでドラマだったの。
ひとりきりで向き合ったストーリー。
過ぎてしまえば皆うつくしい。
「過ぎてしまえば皆うつくしい」とは歌謡曲にあった一節だ。
喉元過ぎてしばらく経てば出来事の苦味は消え事実だけが残る。
あの頃のわたしに伝えたい。「あのね、今苦しくてもそれでも生きてごらん。あなたは
絶対に幸福になるんだから、信じてごらん」泣いてるわたしに半世紀は生きたわたしが
伝える。心は届くだろうか。寸分の狂いもなく素直に伝わりますように。頑張れ・わた
し。
おおむね静まった湖水。
おおむね静まった湖水。…綺麗に書きすぎ!
加齢とともにあれこれ騒がなくなった。わからないことは質問する。
「聞くは一時の恥」だけど聞いて損はない。だから聞く。
新しい世界が広がる。経験値が「ちゃりん☆」と貯まる。
わたしが豊かになる。
今日の厨房班で足りない野菜を発見。
買いにゆかなくては。空模様と相談なう。
うーん、微妙に曇りなんだよね。予報はこれから晴れるらしいが。
降らないと決めて出かけましょうかねー
壁を越えたら寛解。
今、向かっている壁を越えたら、寛解みたいなものじゃないか、と夫は述べた。
そう、壁が出現したのだ。
わたし側としては昨日と変わらぬ日々に戻るだけだから、
その壁についてどうこう言うつもりはない。
ただ、悲しいばかり。
たとえば「デイケアに自分のことを客観視しているかたは皆無だっただろうね」
夫は言う。客観視。逃げずに見つめる。そして身の回りのことを淡々とする。
わたしは苦手な家事をこれからは寛解のリズムで出来ると考えている。
「ママが野菜を刻んでる♪」だいすきなクドカンさんドラマ「監獄のお姫さま」の
劇中歌だ。これからは苦手な野菜切りも寛解のリズムで取り組める。
わたしがそう選んだら現実は変わる。劇的に。
新しい自分よ、こんにちは!